世間ではコロナウィルスが猛威を振るっていますが、皆様体調は崩されていませんか?今は不安の中でも冷静に生きていきましょう。今は一緒に耐えていこう!
・・・とそんな話から今回はクソゲーの話です。落差が大きいなあ・・・。
前置きはさておき、クソゲーは作る側遊ぶ側両方にとってあまり好ましくないもの。30年以上前から存在するクソゲー。名前としてのクソゲーは今も昔も同じですが、実はそのあり方は変わってきています。
それはアップデートの存在。正直今更な話なんですけどね。
シナリオ、ストーリーの悪さ、ゲーム性の悪さ、操作性・UIの悪さ。クソゲーの条件としては色々あります。人によって面白い・面白くないの基準も違ってくるため、一概にクソゲーとは言い切れないゲームもあるのが実際のところなんですが。
アタリ2600のET、ファミコンの星をみるひと、スーファミの摩訶摩訶、プレステの里見の謎、wiiのメジャー パーフェクトクローザーとメジャー投げろ!ジャイロボール!、四八(仮)など、挙げだすとキリがない伝説的な領域、それがクソゲー。
私にとっては、大きな期待から大きな裏切りを味わわされたテイルズオブゼスティリアが未だにトラウマです。最新作のアライズは面白そうと思う反面、人の評判を見てから買おうという臆病心は拭えません。
今回はソシャゲにおけるクソゲーとはなんぞや?といったお話。もはやどんなところでも話されつくしているとは思いますが、読みごたえのある内容に・・・できたらいいなあ(笑) では、スタート。
“終わる”ゲームと”続く”ソシャゲ
アプデが入る以前の家庭用ゲームは、完成して発売してしまうとよっぽどのことが無い限りそれで終わりでした。
どれだけ内容が薄くても、不親切なシステムだったとしても、バグが多くても、全てをひっくるめてそのゲームなんです。
例えば、上で挙げた “星をみるひと” は不親切さと説明不足が詰まりに詰まったゲームで、摩訶摩訶やメジャー パーフェクトクローザーはバグまみれだったことがクソゲーとしての決め手でした。
ファミコン作、星をみるひと。スタートすると広大なマップに放り出され、ヒントも無しに進むことになる。
画像にある初期位置の真下に見えない村があり、何も知らない場合1/4(上下左右)でそこに入れないと詰み。何故詰みかと言うと初期状態だと敵エンカウント=ほぼ死亡だからです。無慈悲!
パーフェクトクローザー。野球知らない人から見るとどうなんでしょう?バッターが逆向いてキャッチャーの頭をカチ割る体勢に入っていたり、ボールを見ないといけない審判がキャッチャーに思いっきりケツ向けていたり。キャッチャー包囲網。
つまり、家庭用ゲームは商品価値が伴わないものがすなわちクソゲーだったわけです。お金を払って楽しくない、面白くない、遊べない、ネガティブなことが強くなればそれはクソゲーと言えました。3周ほど回ってそれがゾクゾク来るちょっと救いようがない人(良い意味で)もいましたが。
ゲームとしてもエンディングを迎えて終わることができることも大きな違いで、評価も最初から最後までで終わらせることができるんですよね、ここからここまでという評価の基準が作りやすいのがこれまでのゲームでした。
変わって、現在進行形で大なり小なり変えたり加えたりしながら進み続けなければいけないのがソシャゲ。
悪いところを修正したり、逆に良かった部分を改悪してしまう場合もあったりと様々。なので “このソシャゲは良いゲームでこっちはクソゲー!” と簡単には決められません。
人によってはパズドラもモンストもFGOもグラブルも全部クソゲー!むしろソシャゲ自体がクソゲー!!って人もいるでしょうけど、それだと今度は話が進みません。
ソシャゲにおいてクソゲーと決める場合、家庭用版以上に個人の感情が込められていないことが条件じゃないかなと思います。
一番大きな理由としてはソシャゲの場合、人によって費やしたお金の額が違うためです。
ほとんどの人がほぼ同じ条件で購入することになる家庭用版に比べると、人それぞれ価値観が伴わなかった場合の条件が変わってきてしまいます。
これが厄介なところで、色々なソシャゲが色々な事件になり炎上すると、その結果クソゲーと呼ばれることも多々。
パ○ドラの曲○士とか、モ○ストのエ○ァ神獣化とか、グ○ブルのアン○ラ事件とか、白○のパ○メとかFG○の初期メンテとか。嫌な事件だったね・・・。
感情による振れ幅が大きいと、誰しもが納得のいく理由になりません。
めっちゃ課金した人が「こうこうでこういう理由でクソゲーなんだよ!!」って言っても、ピンと来ないんですよ。
じゃあソシャゲにおけるクソゲーってなんなのよ!?って言われると、正直良く分かんないんですよね。
長く続くソシャゲはどれも悪いところがあったとしても、それを超える多くの良いところがあって、誰しもがこのゲームクソゲーだ!!ってなるようなソシャゲってもう無い気がします。そんなゲームはそう叫ばれる前に無視され淘汰されて終わるから。
この時点で、昔のゲームと今のソシャゲにおける “クソゲー” の意味ってもう全然違うんじゃないでしょうか。だから昔の基準を持ってる私からすると、良く分かんないんだと思います。
ゲームの修正ができること、お金を払ってからゲームを遊ぶことから、ゲームを遊んでからお金を払うことに価値基準が変わったことから、色んな基準が増えて、定義が変わってきたんでしょうね。
それでもソシャゲのクソゲーを定義するならば
分かんねえ分かんねえ言ってる私のような化石ゲーマーが、それでもソシャゲにおけるクソゲーを決めてみるなら、条件としては
極端に自由度が少ないゲーム。
でしょうか。攻略に自由が無く窮屈で、使えるもの・キャラ・武器などが限定されすぎている。ざっくりとですがそんなゲームが一番かなあと。
自由度ってかなりざっくばらんとした言い方ですが、例えば縛りプレイとか自由度を表現するひとつですよね。強い要素でガッチリ攻略していくのがゲームであれば、それらを一切使わずに他の人があっと驚くような要素を使って攻略してみせたり。
難しさの中にあるバランスと工夫を自分から編み出して楽しさを見出す人もいれば、そうした工夫を見て面白さを感じる人もいる、そんな自由度が限られてしまうこと。
他にも運営がガチャを乱発してお金に走ったり、過激なインフレを起こして顰蹙買ったり、バグや不具合が直らないしUIは使いづらい、なんてありますが、それってクソゲーか?って言われるとどうも違う気がしまして。
ガチャ回りで悪さしたり、みたいな悪質なのはクソゲーとかじゃなくて、ただのクソ。
クソゲーというのは悪く言われながらもどこか憎みきれないというかネタ的な要素もあるもんだと勝手に思ってます。ガチで金返せってゲームも稀にはあるんですがね・・・。
運営とクソゲーの関係
私の中でソシャゲとクソゲーがそこまで結びつかないと思う要素に、運営の存在があります。
昔はそこまでゲームを開発する人ってクローズアップされなかったんですよね。
ドラクエの堀井雄二さん、FFの坂口博信さん、龍が如くの名越稔洋さん、スマブラの桜井政博さんなど、シリーズを象徴するような方はおられましたが、それも特殊と言ってもいいことで、本来はこうした人たちが表に出て話すってことはあまりありませんでした。
ですが、今ではプロデューサーやディレクターといったソシャゲの中核を担う人は生放送を行ったり、公式 or 個人のツイッターを持ったりと表に出ることが当たり前になりました。
結果、本来ならゲームそのものに寄せられるはずの苦情、クレームが人に行くように。内容もゲームに対してというより、人に対して攻撃が向きます。これって単純に怖いんですよね。
たまに運営もユーザーをバカにしたり、あくせくと反撃したりするためこじれにこじれたのもあるはずで。
この辺りは時代でしょうね。有名人・著名人・偉い人と近く接することができるようになってしまったことで、距離感を計れなくなったからこそ、もっとシンプルにゲームだけ見ていた時期と違って色々目に入ったものに対して感情を向けてしまうと。
ゲームを批判したいのか、人を攻撃したいのか、人それぞれバラバラになったことで余計にややこしいことになったのが今なんだと思ってます。
・・・でも人を攻撃するのってやっぱり不毛だと思うんで、しっかりゲームの内容でクソゲーかどうかの判断をしてほしいですね。
まとめ
どんなゲームでもアップデートで修正ができるようになった今、クソゲーの “クソ” 部分がどんどん無くなり、クソゲーは言葉とともに終焉を迎え・・・ていれば良かったんですが、言葉が残ってゲームに絡むネガティブな部分に使われるようになりました。
そんな今が残念だと思う気持ちもあれば、仕方ないよねって同意できる部分もあってしまうのはご愛嬌かな。
誰にとっても一番なのはお金や時間を払って楽しい、面白いと思えることですからね!